最近考えてること
最近考えてることの日記です。
森元首相の発言と周りの反応にモヤモヤ
明らかな差別発言をしても、ダメだとしっかり判断しないのは良くないです。
甘々なノリでやっていこうとするやり方が嫌いです。
大きな性差別が蔓延している日本社会だと思うけど、それを自覚するのは難しいと思います。当事者である女性でさえ、難しいと私は思います。
例えば
・ミソジニーを内面化していて、女の人自身が女の人をさげすむような発言をする
・女の人が森さんの発言を批判したことについてはネガティブな印象を受けるのに、男の人が同じように発言すると、なんだかいい人に思える
こういった小さな感覚が、元を辿ると男性中心の慣習や文化に由来しています。
私たちは、生まれた時からこうなっている社会に適応しようと生きているので、多くの人がそれを当たり前のこととして受け入れてるのは当然だとも言えます。
しかし、性差別がはびこる社会を変えなくてはいけないです。自分もそうやって不当に扱われるのも腹が立ちますし、周りの人がそうなるのも嫌です。
性差別について知るチャンスが多くの人に訪れることを願います。
この問題をどうやってなくしていくか、考えています。
私は本を読むのが好きなので、勉強して、周りの人にわかりやすくに伝えられるようになりたいなぁと思っています。
このことを考えるのは、正直腹が立つしなんだかどんよりした気持ちになります。何やってるんだよ、そんな発言するなよ、って思います。
でもこういう社会であるのは事実なので、抵抗していきます。
英語ファイティンしたい
最近、燃ゆる女の肖像の監督や女優さんのインタビューを見ています。
ほとんどがフランス語か、英語です。
英語の方がフランス語よりもまだ分かるので、どうにかこうにか調べながら何を話しているのか理解しようとしています。
どうしても、理解したい!という私のオタク心を利用して、英語を勉強したら素晴らしいなと自分でも思うのです。
英語は本当に苦手ですけど、英語を克服できたらとても楽しいことが増えそうなので、辛抱💓辛抱💓って感じでやっています。
どうにかこうにか、なんとなくこんな事言ってるよね〜??!?という感じで理解できるようになりたいです。
おしまい
サンドラ・L ・ベム 『ジェンダーのレンズ』 一周目感想
「ジェンダーのレンズ」という本を読み終わったので感想を書きます。
これはサンドラ・L・ベムが書いた本で、彼女は両性具有と性別の研究で知られています。
「彼女の研究はアメリカの女性にとってより平等な雇用機会に直接つながりました。」
とwikipediaにも書かれており、社会に影響を与えた研究者でした。
この本は全米出版社協会の心理学部門のthe Best New Book(1993)に選ばれているようです。
頭を叩かれたように驚きが多かったのですが、まだよく分からないこともあるので、とりあえず分かったことだけ書いてみます。
※この本が書かれたのが20年以上前ということで、今の考え方よりも古い部分があると思います。私もジェンダーの勉強を始めたばかりなので、少しずつ理解していければと思います。
ジェンダーのレンズとは
この本では、誰もがジェンダーのレンズをはめて世界を見ているのだということを非常に詳しく説明しています。
そのレンズは、3つです。
1ジェンダーを両極化しているレンズ
2男性中心のレンズ
3生物学至上主義のレンズ
私たちは、無意識のうちにこの3つのレンズをのぞいて世界を見ています。
ちょっと信じられないかもしれませんが、読み進めていくうちに本当に実感しました。
このレンズがどんなものかを知るためには、性別に関わる歴史的背景をたどることになります。
歴史はユダヤ教やキリスト教、ギリシャの哲学までさかのぼります。さまざまな学者が書いてきた論文も紹介されています。(アメリカの学者なので西洋文化の歴史です)
歴史を見ていくと、いかに男性中心の世界が出来上がっていったのかを知ることになります。まさかここまで男性中心の構造をもつ世界に生きているとは思いませんでした。
それを知ったうえで、もっと理解するのが難しかったのが
1ジェンダーを両極化しているレンズでした。
ジェンダーを両極化しているレンズ
ジェンダー両極化のレンズとは、男女をはっきりと分類し、両極に分けているレンズということです。
私はいつもこのレンズをはめている自覚があり、それをあまりにも考えてしまうことに悩んでいました。そのレンズは必要なのか?といつも自分に問うていました。
本を読むと、現代における男らしさ・女らしさは文化が引き起こしたものだということが分かります。
また、そもそも、なぜジェンダーの両極化という考え方が生まれるのか、ついても教えてくれているので、私の思考をほぐしてくれました。
内容の説明は非常に難しいので、今後少しずつやっていきます。
まとめ
この本は、自分の感情や考え方がいかに文化に染まっているのかを自覚させてくれます。
また自分の思考を俯瞰して考えられるので、素晴らしい本にめぐりあえて幸せだと思いました。
正直、読むのがとても難しい本です。歴史を紐解いていく部分の分量がかなりあるので、現代に結びつくまでが少し辛抱が必要でした。しかし全部読み終わってみると、本当に読んでよかったと思える一冊でした。
真冬に突然のスニーカー
札幌の冬は雪が積もるので、ブーツをはく人が多いです。
札幌のかなり都心に住んでいると雪が少ないので、スニーカーでも生活できます。
また、高校生の中にもスニーカーを履き続けている人がちらほらいます。
私も高校生の頃は限界までスニーカーをはいて登校していました。なんというか、寒いのに履いてるわたし、すごい、と自分で思うのが楽しかったです。
それでは本題です。
最近、毎日散歩をしているんですが、ブーツを履いていると足首が飽きてくるんです。
足首が固定されて暖かさに包まれていることにむしゃくしゃして、靴を脱ぎたくなります。
だったらスニーカーで行こう!と思い、マイナス7度の日にスニーカーで散歩しました。
すると足の指が凍るほど冷たくて、痛い、寒い、最低!
そして滑る!!
と思いました。
しかし、それ以上に喜びがありました。
足首が固定されていない!
足首が解放されているのは最高に自由な気分です。
沖縄の人は一年中サンダルを履いて生活できるのかなぁ、それは良いなぁと思いました。
まとめ
スニーカーは最高です。
短靴は足首を自由にさせてくれるので、幸せを感じます。
雪が降っても、たまにスニーカーを履いて歩こうと決意しました。
スニーカーは最高です。
おわり
燃ゆる女の肖像の感想じゃなくなっちゃった ※2/5編集追記
燃ゆる女の肖像の感想を書こうと思っていましたが、感想というよりも、自分に対する気づきの話になりました。
女性のまなざし
画家のマリアンヌ役であるノエミ・メルランさんは
「Female Gaze=女性のまなざしによる映画という新たなコンセプトを意識するようになりましたね。」とインタビューで話しています。
「"フィメール・ゲイズ=女性のまなざし"による映画という新たなコンセプトを意識するようになりました」『燃ゆる女の肖像』ノエミ・メルランインタビューneol.jp | neol.jp
お互いが対等な立場に立ち、1つの作品を共有していると実感できるーーそれこそが、より興味深い作品を作るのに相応しいやり方だと思いました。
その視点を感じたんだと思うんですが、観終わった後のじんわりとした感動が他の映画とは違いました。じんわりとした感動というのは、熱かったり温かったり、静かだけど頼もしいような気持ちです。
私は初めて、女性のまなざしというものを実感することができたんだと思います。
これによって、私自身の捉え方に変化が起こりました。
私の悩み、考えてきたこと
私は小さい頃から「ボーイッシュだね」と言われることがよくありました。
もちろんそれは自分で分かっていることだったけど、他人から「ボーイッシュだね」と言われたときは、なんとも言えない複雑な気持ちがありました。
誰に言われるかにもよりますが、あまり嬉しくはなかったです。
なぜ嬉しくなかったのか、ずっとわからないままでした。でもこの映画を見て考えているうちにヒントをもらったような気持ちになったんです。
なぜ複雑な気持ちになったのかというと、ボーイッシュに見える格好をしていることが、私にとっては「(女性である)自分としてかわいくて素敵なこと」だったからです。
女性である私がその格好をして、かわいいし素敵だと思っていたのに、それを「ボーイッシュ」という言葉で説明されると、「ただ、男の子らしくしてる」ということにまとめられた気がしていました。
そのことに違和感があったんだと思います。
たしかにボーイッシュな格好なのは間違いないけど、それは自分の中で「男の子っぽく」なるためにしていたのではなく、「自分がかわいく素敵」であるためにこうなった、という感じでした。
私は女性だけど男性っぽさもあり、女性っぽさもあり、でも男みたいと言われるのは嬉しくない。でもボーイッシュと言われる表層をしている自分が嫌いではない…一体なんなんだこの感情は?と思ってました。
その曖昧さが心地よいのではなく、ずっとモヤモヤしていたんです。
でも映画を観たことによって、とても複雑な感情を言語化できました。
自分が女性という性別に含まれる存在だということを実感したからなのかなと思います。
私はこのままでいいんだ、自信を持っていいんだ、こういう感じを大切にしていいんだ、と思いました。
それがものすごくうれしかったです。
まとめ
「燃ゆる女の肖像」は、ずっと私のことを勇気づけてくれている感じがしています。
自分の中には、女性としてのアイデンティティが少なからずあって、それを感じさせてくれたのかなと思います。
上手く言葉にできてなさそうですが、こんな感情になったということを書いておきます。
この文章を読んで疑問やモヤモヤがあったら教えていただけたら嬉しいです。
おしまい
▼感想その1
▼感想その2
燃ゆる女の肖像 感想その2 音と演技
それでは第二回目です。
まずは音に関してまとめようと思います。
(※内容に触れるので、まだ観ていないかたは注意です。)
音
燃ゆる女の肖像では、音楽がとても大事です。18世紀は音楽が簡単に聞ける時代ではなかったため、主役たちが音楽に触れる機会は3回しか出てきません。
しかし、たった3回の音楽からものすごく大きな力が伝わってきます。
当時簡単には聞くことのできなかった「音楽」というものの存在を、
映画を観て追体験しているようでした。
セリフと人間の動きの音しか出てこない中で突然、メロディーが聞こえたときのインパクトは、普段の生活では感じたことのないものでした。
何かに例えると、音楽の授業で「魔王」を初めて聞かされた時のようでした。
(同年代の人しかわからないかもです🙏)
また、散歩をするために外出したときの、波の音・風の音も印象に残っています。
大きい音で、自然を畏れるような気持ちになりました。
主演二人の演技と描かれた恋愛
私はお芝居や演技を学んだことはないけど、自分なりに書いてみようと思います。
主演お二人(アデル・エネルさんとノエミ・メルランさん)のインタビューでは、
リハーサルをしないで撮影した、ということが語られています。
ということは、本番の一回で初めて合わせるということです。
画家のマリアンヌ役であるノエミさんは、演技のやり方は1000通りあると語っていました。もしお互いに1000通りのセリフの言い方があるなら、本番では100万通りの中から1つが生まれるということです。
それって、頭で考えて行動するというよりは、もうそこにいて、その場の全てを汲み取ってやるしかないような状況になると思うんです。
この即興性を自由に使って演じたことが、今までにない恋愛の過程が生まれた理由なんじゃないかと思います。
こんなインタビューがありました。
「支配欲から解放された恋愛などありえるのだろうか?」という問いへの答えです。
(アデル・エネルさん)
「自分はこういう人間だと思い込んでいたものとは違う、新しい自分に気づくのが“純粋な恋愛”だと私は考えます。
ある意味、お互いの存在そのものが“冒険”というような……。
相手と対峙し、過去を振り返るのではなく、これから先のことを一緒に作り上げられる可能性がある関係。」
ここでアデルさんが話している純粋な恋愛の定義は、「新しい自分に気づく」ことです。
そして、「これから先のことを一緒に作りあげられる可能性がある関係」。
これって、そのまま演じていた二人の状況とマッチしていると思うんです。
だからこそ、映画というフィクションの中で、信じられないらいに実体を感じる「恋愛」が見れたのだと私は思っています。
まとめ
あー、本当にいい映画を観れて嬉しいです。
なんか自分の価値観がまた更新されたような気がしています。
次回には、この即興性が生まれた現場はどうやって作られたのか(女性同士の連帯)、そして女性というものについても書きたいです。
前回の感想
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燃ゆる女の肖像 感想その1
燃ゆる女の肖像の感想を書きます。
※内容に触れるので、まだ観ていないかたは注意です。
(記憶がおぼろげな部分もあるのでご了承ください。)
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温かさ
映画の後半で、二人の熱いやりとりがたくさんありました。
それを観て感じたのは、とても温かく熱い感情です。
劇中でショックな出来事があったとしても、暖炉のように熱く温かい気持ちが続いていました。
これは私の中でかなりびっくりしたことです。普段は、ベットシーンになると体が硬直したり、ヒヤッとするような感覚が来ます。
まだ仮説なんですが、おそらく私はベットシーンで暴力性のある動きや眼差しが出てくると耐えられないみたいです。自分の中での許容範囲があって、そこからはみ出たものを見てしまうと、けっこうショックを受けます。
(余談なんですが、ロマンティックな物語は大好きなのに、こういったシーンが苦手なので観る作品のチョイスが難しいと感じています。)
そういった直接的なベッドシーンがなかったから(多分?)大丈夫だったのかもしれませんが、こんなに自分がヒヤヒヤしないで、内容に集中できたのは珍しかったと思います。
温かい気持ちでずっと観れたのは本当にありがたくて、うれしかったです。
どちらか一方ではない、双方向のやりとり
映画の後半で二人の恋愛模様が強く描かれていますが、
どれも双方向のやりとりだったからあんなに感動したのかなと思っています。
抱きしめるときも、見つめるときも、
どちらか一方が強いのではなく、お互いに力をあずけたり、緩めたりする。
双方向のやりとりがあったから、二人の通い合う感情が見えたような気がします。
・強い↔︎弱い
・抱きしめる↔︎抱きしめられる
・押す↔︎押される
こういった対立した形式がなく、常にゆらいでいて、二人で交換していました。
なにをしているときでも、お互いがお互いを探り合って、確かめ合うという感じです。
監督のインタビュー記事には、主演のお二人にまつわる話がありました。
2人もラブシーンは全体の中では難しくはないと思ったようで、守られている感じがしたと言っていました
演じているお二人の「守られている感じがした」という言葉に、私が感じたものが含まれているように思います。
本当に、二人のやりとりがあまりにも美しくて、ただただ感情を揺さぶられていました。
ずっと目がうるうるしていたように思います。
まとめ
この映画に対する思いが爆発しています。笑
大きい感情なので、逆にすらすらと書けないようにも感じます。
また他の観点から、感想を書きたいと思います。
▼感想その2
本当にまとまりのない日記
ちょっと驚くほどまとまりのない日記を書きます。
雑に書いていくので、まとまった文章を読みたい方はここでお別れしましょう。
今何となく頭の中にたくさんの言葉が出てきて、放出しないと溜まっていきそうです。
まず今大好きな俳優さんの話。
ラジオを聞いたりYouTubeで動画を見たりしてどんな人なのかを探って知ろうとしています。
よく姉に、「会ったこともない人のことをそんなに調べられてすごいね。」と言われます。
私もどうしてなのか分かりませんが、好きになったら徹底的に調べたくなってしまうんです。
自分でリサーチできるものは全て見たくなります。SNS、どんな事務所なのか、どんな性格なのか、どんな性格の人だと周りの人に思われているか、どんな状況のときに、どんな振る舞いをするか、などです。
そういうのを見ているとだんだんこういう人なのかな、という形が見えてきます。
その形がすぐに分かってしまう人は、リサーチをすぐにやめてしまいます。
自分の中ですんなり受け入れやすい人よりも、なんだ??って疑問が湧く人の方が調査が楽しいです。
いま好きな俳優さんは、特にどんな人なのか分からないので、ずっと好奇心があります。
役によって表情、声の高さ、メイク(当たり前ですが)が大きく違うので、同じ人を見ている感じがしないんです。
こんなに役によって違って見える人は、今までいませんでした。とても驚いています。
ここ1ヶ月はずっと好きな俳優さんのことを調べると思います。
ドビュッシー、坂本龍一、山下達郎さん
坂本龍一さんの本(自伝っぽいやつ)を読んでから、色々な音楽家のことが気になり始めました。
まずはドビュッシー。坂本龍一さんが最も大好きな音楽家の一人です。
ドビュッシーの作る音楽は、音の重なりが美しく、アジアの音楽に影響されたものがあるそうです。
Apple Musicで聞いてみると、よく分かる気がしました。音の並びが数学的に美しいのか、宝石を散りばめたような音だと感じました。
また、坂本龍一さんが山下達郎さんの曲を聞いた時、ドビュッシーのような美しさを感じたという文章もありました。
それを知ってから、山下達郎さんの曲を聞きました。
なんか水や光のようにスルッと通り抜けていく音楽だと感じました。
このような美的感覚は、勉強と感覚(センス)の2つで産まれるものなのでしょうか。
私には魔法にしか思えません。
私も驚くようなメロディーを一生に一度は作ってみたいです。
おしまい。
読んでくれた人に一言
お雑煮食べましたか。わたしはもち一個食べました。
今年も生き延びれたらいいですけど、無理しないでいきましょうー。