かたちを作るブログ

- 頭の中を形にするdaronaの日記 -

春っていいね

春はいいですねぇ。

 

なんか、外に出かけたくなるし、風のにおいを吸っただけでちょっと幸せ〜っていう気持ちになります。

 

春と秋がもっと長ければいいのに。

 

冬が1ヶ月半で、夏は1ヶ月で、春は5ヶ月、秋は4ヶ月半。

(計算あっているかな…)

 

もしそうだったら、もっと気持ち良い日が多いのになあ。

そうなると何が変わるんだろう。

 

 

もっとみんな公園で遊ぶような気がする。

ピクニックが多くなる気がする。

車よりも自転車でどこかへ行きたくなる気がする。

 

もっとのんびりする気がする。

 

でも春は、不審者とか露出狂も多くなるからいやなんだよなあ。

いなくなればいいのになあ。

 

 

春になると、緊張したことを思い出します。

そして、5月病のことも思い出します。

最初の1ヶ月はなんか無理しちゃうんですよねえ。

 

今は無理しないように気をつけてますけど、やっぱり少し

無理しちゃう。

 

そして5月になってなんか嫌になる。

ヤダー。行きたくない。寝てたい。

つまらない。という気持ち。

 

それでもなんとなくがんばってたら、6月になって、

なんとなくやってたら7月になって、

暑い…しぬ…ってなります。

 

 

でも暑くなると、朝起きやすくなるから私的にはありがたいです。

 

 

・・・

 

 

今年は、夏フェスに行きたい気持ちが大きいんですよね〜。

でもないので、自宅で夏フェスの映像でも見ようかな。

 

コロナになって思うのは、

なんだかんだ人が集まる場所に自分は行きたいんだなーってことです。

 

いつもは人混みが苦手、苦手ーって叫んでいるけど

なんとなく人が集まってわくわくしてる空間に行きたくなります。

 

人は人からいろんなエネルギーを受け取っているんでしょうか。

 

私の姉はいつも、「ひと一人の持つ生命力とか、情報ってものすごい大きいよ」って

いうんです。

 

通りすがりの人でさえも、歩き方や素振りでどんな人か分かるって。

そしてこっちの気持ちも動かされてるらしいんです。

 

あんまり気にしてないけど、

実際そうかもなあと思います。

 

 

その人と目を合わせなくても、

しゃべらなくても、

なんとなくその人が分かる。

 

分かるというのは、具体的なことじゃなくて、

雰囲気とか、人のまとっている空気とか、

どんなことを思う人なんだろうってことです。

 

抽象的なことが分かるってことです。

 

 

まとめ

今日は、いい気分だったのでなんとなーくの言葉を書いてみました。

こんなに気の抜けた文章を書けたのはめずらしいです。

 

それではさようなら〜。

いまなら分かる

小学生くらいのときからボヤ〜っと感じていたことなんですけど、なんとなく思い出したので書いてみます。

 

小学生の時にやっていた習い事は武道でした。

そのクラブにはほとんど女の人はいなくて、8割〜9割くらいが男の子でした。

その中に同級生のSくんという男の子がいて、とても仲がよかったです。

 

Sくんは優しくて、上品な人でした。

話す言葉もサラサラしていたし、武道をやっている時の動き方はクセがなく、綺麗な動きをしていたのを覚えています。

 

ある日、Sくんと練習をしていたとき、私が武道の動きで攻めたらSくんが転んでしまったことがありました。

 

そのルール上、相手を倒してしまうことはしょっちゅうあるんですが、私は体が小さかったこともあって人を倒した(転ばせた)ことはほとんどありませんでした。

 

そのとき「押しすぎてしまった…」という後悔があったのを覚えています。

 

練習には私の母とSくんの母も見に来ていて、見学しながら仲良く二人で話していました。

 

家に帰ったあと、母がこんなことを言ってました。

母「Sくんのお母さんがさ、『(私)ちゃんに倒されるなんて、もう〜(笑)』ってめっちゃ笑ってたさ〜」

 

私「あ、私が倒しちゃったから?押しすぎちゃった」

 

母「全然、それが悪いとかじゃ全然ないのさ〜。ただ小柄な(私)ちゃんにも倒されるなんて、ほんとうにもう…って笑ってたのさ」

 

 

Sくんはけっこう独特な人で、Sくんのお母さんは、よくSくんの面白い出来事を聞かせてくれていました。

だからSくんのお母さんは、Sくんの面白みを感じて笑っていたのだと思います。おそらくそれは、Sくんの負けん気の少ないこととか、情けないこと(たぶん)をおもしろがっていたのでしょう。

 

でも、私はなんか、やっちまったな、という気持ちと、

なんでこんなに面白い話になっちゃうんだろうって思っていました。

 

言葉にするとこうなんですけど、その時は

「あー面白かったのかぁ。ははは。でもなんだろう〜?」ってくらいにしか表せなかったと思います。

 

 

今になって、このことをジェンダー的な観点から見てみると、

 

・男の子が負けん気が強いことがよいこと、みたいになっている

・女の子のほうが男の子よりパワーがあると、男の子はみっともないみたいな風潮

 

・もし私が男の子だったら、ここまでSくんのお母さんは面白みを感じなかったと思う。私が女だったから、Sくんが倒されたことの弱さみたいなものが増幅されたように感じ、さらに面白くなったんだと思う。

 

ここに書いたことは、よく考えると同意してくれる人が多いと思います。

でも、これ、人に話す?いちいち訂正する?と考えると

うーん、その場では言わないかも、、、って思うんです。

 

しかもその場ではちょっとしたモヤモヤになるだけだと思います。

 

でも、私が男性と女性、ジェンダーのことに注目するようになったのは、

こういう違和感が日常のなかにいっぱいあったからじゃないかな〜と思うのです。

 

いつのまにかシュミレーション

 

いつのまにか私は、他人が話した言葉を、他の性別の人が同じことを言ったらどう感じるかをシュミレーションするようになりました。

 

大学で男子学生がしゃべっていて、違和感を感じたらすぐに頭の中の女性に同じことを話してもらう。

 

女性が話していて、違和感を感じたら、頭の中の男性に同じことを話してもらう。

 

これを繰り返していると、本当に色々な気づきがありました。

今もけっこう無意識にやってしまうこともあります。

 

男性が言った言葉では、圧力や支配的であることが浮き彫りになることが多かったです。

女性の場合では、キツく感じた言葉も男性に置き換えるとそんなに強い言葉ではなかったな、と感じて反省したりしていました。

 

こうやって自分の中で、性別をとりかえっこして物事を見ているうちに、

まじで世の中の男性と女性という分け方ってなんなの?って思うようになりました。

 

さまざまな本を読んでいくうちに、その性差は文化的に作られた嘘(少し大げさですが)だとわかったときは、ええ〜〜〜?ってちょっとドン引きしましたけど、

自分の違和感は間違ってなかったと思ってほっとした部分もありました。

 

まとめ

なにが言いたかったんでしょうか。

なんとなく思い出したことを書いてみました。

私と同じくらい、この世の中のおかしな性別のあり方(表現のされ方)に違和感を感じている人がいたのでしょうか。

 

こんなこと言っても本当に仕方ないんですけど、世の中の性別は文化的につくられたものである、と誰か一人でも教えてくれたらよかったのに、と思いました。

 

もっと若い頃に出会えていたら、もっと早く自分に自信が持てたと思います。

こんなこと言っても仕方ないけど、やっぱりこう思っちゃったので書きました。

 

おしまい

窮屈がいやだ

何か一つの主張や、自分の立場を表明すると、そのことを貫き通さなければならないような気持ちになる。

 

例えば自分は性的マイノリティです。レズビアンです。同性愛者です。

 

というと、周りからその目で見られるから、ちゃんとしなきゃいけないような気がしてくる。

 

相手にとっての最初の性的マイノリティであったなら、いい人でありたいと思ってしまう。

 

こういう考えが自分を縛って、窮屈にさせてしまいます。

 

誰も頼んでないのに、いい人になろうとする。

(自分の中のいい人のイメージは、爽やかで人の意見を聞く人って感じです。)

 

 

ありのままの自分でいいと思えるなら、失敗したとしても大丈夫。

オープンな自分でいいと覚悟できるなら、窮屈な気持ちにはならないと思うのです。

 

ありもしない、いい人を求めて

(ちょっとこのタイトルかっこいい感じがする)

 

もともと、ありのままの自分を受け入れることよりも、変化を求める性格なのかもしれません。

 

今このままでもいいけど、やってみよう!

じゃなくて、

やるぞ、やるぞ、変わるぞ、です。

気楽さが少ないです。

 

だから、理想ばかり追い求めて、しんどくなります。

 

こんな自分でもいいじゃない。

ってか失敗した自分、なんか滑稽だな。

という感じで、親友を見つめている感じで、子どもを見守っている感じで、自分のことを見ていきたいです。

 

そうすれば、カムアウトしたり、意見を主張したあとでも窮屈にならないと思います。

 

それでは、想像上の批判コメントを作って、返してみたいと思います。

 

 

「あいつ、変だな」ー 変ですよね、私もそう思います。

 

「偉そうにジェンダーのこと話してて、なんかつまらないな」ー そう思いますか?ありがとうございます。でも、これが私なのです。

 

「あなたってカムアウトしてすごいね。なんか言いづらくない?」

ー 言いづらいです。でもこれが私なのです。本当なら隠しもしたくないし、言いたくもないです。全ての人が勘が鋭くなって、自然とわかってほしいです。でもそれは難しいことなので、言いました。

 

 

こうして書いてみると、

わたしは誰かに批判されるのが怖いということが分かりました。

でも、批判されない人生なんてあるんですかね。

どの行動を見ても、誰かにとっては悪いことで、誰かにとってはいいことなのかもしれません。

 

ああ、また哲学のような答えのでないブログになってしまいました。

でもこのあいまいさを受け止める自分でいこうと思います。

 

おしまい🥟

蔑む人を蔑んだらどうなる

ほぼ日記です。

 

今、自分のことを蔑(さげす)まれたとき、どうやってよりよい生き方ができるのか考えています。

 

なにか自分を蔑むようなことや、嫌なことをされたとき、どのような態度や行動ができるのか。

 

最初のステップ

最初は、自分の気持ちに気づく。

悲しいとか、怖い、とか言葉にならなくてもその感情を感じてみる。

 

 

そのあと

そのあとです。

 

その人の態度を口にして怒る、日記に書いて発散する、モノにあたる、嫌だった話をきいてもらう、好きなことをして忘れようとする。

 

ものすごく嫌なことをされたとき、大切にしてもらえなかったとき、

やり返したいという気持ちになることもあります。

 

その相手をバカにしたり死んだ方がいいと思ったり、実際に頭の中で殺してみたり。

 

相手がしたように相手のことをに蔑んで、無くてもいい存在だと思うことにしたらどうなるのか。

 

相手が無くてもいい存在なら、その人を殺すということもOKだということになってしまいます。

 

ということは、これは戦争と同じことではないかと思います。

 

蔑む人を蔑んだら、同じことが繰り返されるのではないでしょうか。

 

別の視点

 

また別の視点で考えてみます。

自分個人の人生としてです。

 

自分がその人に復讐しても、自分が思ういい人生ではないように思います。

創造的じゃないというか、面白くないというか。

 

ある事件

こういうことを考えると、ある事件を思い出します。

 

2016年に韓国で起こった江南駅殺人事件は、女性蔑視によって引き起こされた事件でした。

 

女性というカテゴリーに属していただけで、蔑まれ、命を奪われてしまった。

 

人を蔑むという行為は、突き詰めるとその人には生きている価値がないと思うことだと思います。

 

・・・・・・

 

 

じゃあ、それをされたら自分はどうするか。

 

自分にできることは、同じことをやらないようにする。

蔑んできた相手と、同じことをしない。

 

これは、もしかすると1番難しいことなのかもと思います。

 

とてもつらいことだけど、それ以外によい生き方を見つけられないです。

 

 

まとめ

このことを考えてみると、

小さなことでも、嫌なことをされた時にどう行動するかが見えてくるような気がします。

 

ただ、やり返すのではなく、ほかの戦い方をしたい。

 

なにかがよくなるような行動をしたい。

 

そうしていく努力をしたいです。

 

おしまい

 

人を憎まない

わたしはけっこう父のことが嫌いで、恨んだり憎んだりしてきました。

今もそれと向き合ってます。

 

父がどういう人なのか、わたしには分かりません。

ただ、父という存在ではなく、ただその人であるって感じです。

よく不機嫌になります。

でも口出ししたりとか、嫌味を全くいいません。

 

いいと思うとこもあります。

 

今日も、この人は一体なんなんだろう、と思うような行動をしていました。

 

それで怒ってたんですけど、

「父がもっといい人であって欲しい」という

気持ちと、

現実を受け止める気持ちに折り合いがついてないからなのかなと思い始めました。

 

わたしが何を言ってもやっても変わることはないんだから、現実を受け止めようって思ったんです。

 

そしたらけっこうラクになりました。

 

父が嫌だなと思う気持ちはずっと続いていくとは思います。

でも、憎んだり恨んだりして自分を傷つけないように、折り合いをつけていこうと思います。

 

 

ちなみに、この話は悲しい話ではなく、いい意味であきらめるという話をしています。

 

父になにかアクションをして変化を起こそうと千回くらい挑戦してもダメだったのでもうしませんが、

それ以外のことでは、抵抗していこうという気持ちは持ち続けてます。(いま特に気になってるジェンダー平等のこととかです。)

 

世の中を悲観してあきらめているわけではないのです。

 

おしまい

 

 

とってもよかったキングコング・セオリー

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いま『キングコング・セオリー』というエッセイを読んでいます。

 

〈常に自分自身でありすぎる女〉として──はみ出し者のためのマニフェスト『キングコング・セオリー』|相川千尋|かしわもち 柏書房のwebマガジン|note

なぜかというと、燃ゆる女の肖像に出ていた女優のアデル・エネルさんが、何度も読んだとインタビューで話していたからです。

 

この本は、筆者であるデパントさんの経験をもとにタブー化されている性のこと(レイプやポルノ)が書かれています。

 

強烈で率直な言葉がたくさんあり、なかなか体力がいる本ではあります。

でも、これを読まなければ絶対にたどり着けなかっただろうな、ということが書かれています。

 

具体的に言うと、筆者のデパントさんはレイプされた経験を率直に語っていて、それと同時に個人売春をしていたことも明らかにしています。

 

この対照的な2つのことがらから、ジェンダーや男性権力の問題が浮き彫りになっていて、頭がガーン!となるような内容です。

 

ここで筆者は、レイプ被害から立ち直るために個人売春の経験が役に立ったというようなニュアンスの話をしています。

 

もちろん筆者であるデパントさんが感じたことなので、同じ経験をした人が同じ意見になるとは言えません。

 

しかし、個人的な考えだとしても、この2つを体験し、率直に語ることができる人の話は、ものすごく重要だと思うんです。

 

そして、それを読める機会があることは奇跡に近いことだとも思います。

 

 

直球で語られるデパントさんの言葉は、グサグサ心に入ってきます。

この人が書く言葉は、本心だ。嘘じゃないって思いました。だから惹きつけられて、どんどん読み進めてしまいました。

 

 

フェミニズムの本を読んだら

フェミニズムの本を読むと正直、気持ちが落ち込んだり、怒りが湧きます。

いい気分にならないです。

 

でも、世界の見方を変えたい、もっと知りたい、という欲望があるので読んでいます。

 

そして、同じ気持ちを持つ人たちと、じわじわと変えていってやるんだ、という気持ちもあります。たまに革命を起こしたくなるほど怒りが込み上げます。

 

これからもたくさん読んで、自分が避けてきたストーリーとじっくり向き合っていきたいです。

 

おしまい🦍